成長という名の自己実現。結果を出すための自己受容


特定の環境における評価

今の世の中が資本主義を中心として動いている限り(昔がそうでないというわけではなく)、他人からの評価は常に付きまとう。しかし評価の基準は常に平等が担保されたものではない。不特定多数の要素が混在する、この世の中で、評価軸というものは常に、その時の複合的要因に左右される。

サッカーで最も得点をとった選手が必ずしも最も優秀な選手とは限らないのと同様に、世の中における評価は様々な要因から総合的、客観的に判断が下される。

おそらく自分が今の会社の外に出て行った時の評価と、会社内での評価は全く異なる。しかし、その二つの評価軸自体を比べ、優劣をつける行動自体にはほとんど意味が無い。大事なのは、社内外両方の評価軸を持った上で、その最大公約的な成長曲線を描き、結果をどうやって出すのか考えることだと思う。

そしてその最大公約的な成長曲線を描き結果を出すために必要なことは、自己実現と自己受容の二つに尽きる。

自己実現という名の成長

この世は誰もが同じで、誰もが似ていて、誰もが違くて、誰もが唯一である。
世の中は一般的に相対評価的と絶対評価が交じり合いながら、評価が行われる。しかし自己実現を図る上で、他人との関係に成り立つ相対評価はほとんど役にたたないだろう。

むしろ絶対評価という軸を自分の中に持ち、自分の唯一を極めることの方が、複合的要因に左右される世の中においては大きな影響力を持つ可能性が高い。

カリスマと呼ばれるような人たちは、過去歴史的に圧倒的な影響力を他者に、社会に対して発揮してきた。彼らは別に何か特別人と異なる部分を持っていたというわけではないし、必ずしもIQ的な天才というわけではなかったと思う。

彼らが違ったのは、彼らが他者に対して絶対的な存在だったということだけだと思う。ここでいう絶対的存在というのは、唯一無二であり、その人が自己を極めつくした上での結果論だと言える。カリスマと呼ばれる人たちは誰よりも自分を理解していたし、自分を実現させることにおいて、他に秀でるものがいなかったのだと思う。

世の中で影響力を持つ人間というのは必ずしもIQ、EQが天才的に抜きん出ているわけではない。これらの能力を複合的に兼ね備え、その使い方を誰よりもよく知っているからこそ、その立場に彼らは最終的に立っている。

自己受容することこそが結果への近道

人々は何よりも失敗というものを恐れる。失敗には常に何か失うという恐怖が伴うからである。しかし現実をみると失敗をして何か大きなものを失うというケースは1%にも満たないはずである。

むしろ失敗において、自分が何よりも恐れるのは、自分が自分の期待を裏切るということなのだと思う。人は常に自分の中に期待を持って生きている。そのためか何かに挑戦して、失敗した時、それを受け入れることは過去の自分を否定することのようにも感じ、そこに対して限りなく恐怖を抱いてしまう。

人間は原始的に失敗に対して臆病であり、失敗をすると体にストレスがかかることで、成功確率を否応にも上げようとする本能が身についている。そのためか多くの人は失敗を受容でき無いままに挑戦しないか、挑戦したとしても失敗を繰り返すうちに心が折れて、前に向かうことを諦めてしまう。

おそらく結果が出るまでの回数というのはどんな分野であってもそれほど変わらない。実際、特定の分野において、その道を極めるために必要な時間は10,000時間と言われている。つまりその結果を出すまでの過程(プロセス)において大事なことは、そのプロセスにおいて起こる無限に等しい失敗を受け入れうるだけの心のバランス力(≠強さ)なのかなと感じている。

期待値の高い優秀人材が伸びられない罠

概して世の中で優秀と呼ばれる人材は早いうちから周囲の声に押しつぶされてしまう。彼らはその期待値が高いが上に、一回の失敗でかかるストレスの強さが、他の人の比ではない。その意味で心のバランス力が同じなのに、他人よりも強くストレスがかかっている人が早期に潰されてしまうのは、当たり前といえば当たり前とも言える。

特に若い人は経験が乏しく、感情のコントロールや、社会の中での立ち回りもわからず、心に無駄なプレッシャーやストレスがかかりやすい。その状態の中で期待ばかりが先行し、結果を早く出せと言われる方が到底無理な話ではある。

元来競争社会の中で育ってきた、自分の同世代においては、この傾向が顕著に現れがちなのかもしれない。中には海外で他人の目を気にせず育ち、自分のペースで着実に結果を出していける人もいるのかもしれないが、大半の優秀な人材はそうではないと思う。特にIQ偏重の社会に育った場合、この傾向は後々個人としての成長に多大な影響を与えてくる。

結果と成長の最大公約数

正直言うと、結果を出すことは50%までは努力で確率を上げられても、半分は運としか言いようがないとも思っている。時代の流れ、その時の環境、一緒に働くメンバー、競合、それまでの経験、様々な複合的要素が絡み合い、結果として自分たちの納得が行く結果がでることは、往々にして無い。野球の打率が3割、赤字企業が世の中の大半を占める、この状況を鑑みても、人々が口にする結果というのは、常に理想論の中で動いていることがわかる。

結果とは常に感情論に左右されるものであり、それに一喜一憂しているだけでは長期的に見て最大公約数的な成長と結果には結びつかない。

ではその中で結果を出すためにどうすれば良いかというと、自分の感情をコントロールし、他者との関係の中でその感情を最大限影響力あるものにしていけばいい。加えて、感情で他人に対して影響力を出すだけではなく、その時々の感情に流されることなく常に自分で自分を客観視し、絶対評価していく。それらを両立することで、自分自身の評価・成長曲線は、徐々に自分が求める結果に向かって伸びていく。

自分が進みたいと思える道へ

自己実現と自己受容の先の結果が、必ずしも社会から評価をされるとは限らない。むしろ歴史的に見ると、その先にはネガティブな結果をもたらしたケースの方が多いような気はしている。

ただ人生を生き急ぎ、もっと大きな結果を求めるのであれば、自分が進むべき道ではなく、自分が進みたいと思う道をひたすら突き詰めていくのが、最速最短で上に駆け上がる最善ではあると思っている。

ここ最近自分が特に意識しているのは、自分の感情の揺れ動き、外から見える自分の言動。極論この二つだけである。これが今の自分の状態を何よりも物語ってくれているし、ここに自分の絶対的基準をおいておけば、常に現状把握を怠ることはないと思う。

今の自分は、自分自身に全ての矢印を向け、ひたすらに自分の内面、外面を磨くことに時間を費やしている。それは時にとても退屈で、何か外に刺激を求めたくなることも少なくない。ただ今はそうやって自分自身を高める時期だし、ここで磨かれた自己はそのあとで大きく自分を飛躍されるための、投資に必ずなってくる。

今はまだ結果も出ず、自分自身が現状に納得できないこともたくさんあるかもしれない。でもそれすらも受容して、今は自分のペースで前に進むことが長期的に見た時に結果と成長の最大公約数になるはず。代わり映えのない毎日は決して無駄ではないし、それが自分が求める場所に行く、遠回りで一番近い道のりなのではないだろうか。

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